POYO

あたらしいくにわたくしま

覚書

幼稚でいることの意味はどこにあるんだろうか。これは私の中の永遠の謎であるが(ディアルガ)、自分の理解の範囲から外れた人間を幼稚と読んで切り捨てる行為こそ、グロテスクで幼稚なのではないか。手軽な意見表明とうねり。

 

人間、動物植物などがみな身につけているものごと溶け出し、ぐるりと混ざってしまえばわかるようになるのだろうか。そうしないとわからないのだろうか。言葉があって思考があって、わかり合うための手段をなぜ対立するために使ってしまうのか。またこれは、思考や言葉を持たない人間、動物植物を切り捨てることになるのかと言われれば、それこそ違うと思いたい。生態系が崩れてしまわぬように環境保全するのと同じで、私が崩れてしまわぬようにこうして生きているのだろう。EGO当たり前に嫌い。ため息つくようなことでもないしね。

ブーメランってよくいうけど、自分ができてないことで人を笑うってあんま好きじゃない。けど、完璧な人しか人に指摘しちゃならないってのも、う~んと思う。(おおよそこういうところで言語化することを諦め感情をデフォルメしてしまうあたり私は一生谷川俊太郎になれない(寂しいね(カッコをカッコで囲うな(いつかちゃんと自分の言葉で書こうな))))平になりたいわけじゃない一色になりたいわけじゃない。あなたの凹凸と私の平面が合うように合わせてみたり合わないようなら離れてみたりそれでいいと思う。なんでしないんだろ嫌なんだろって私は思うけど、それを望まない人をも擁するのが多様性なんだと思っているよ。どこぞの飲料水のブランドの行動は称賛されていたけれど。理解できない、故に攻撃する人に対して反撃しても、もう、どうにもならないじゃあないか。もちろん殴られて黙って許せと言っているわけではない。しかしこの大インターネット時代、直ぐに私刑が降るのだ。まだ答えは出せないけれど、何かとちゅうがあるはずだと思う。常識を覆すってよくいうけれど、もう、覆せる常識もそろそろ少なくなってきた。視界狭いか?ジャマイカ。オセロみたいにいかない。覆した先は決して反対色ではない。裏返すとそこに大きな穴と大きな地面が生まれる。そろそろ、浮ついている。学びは必要だと思う。私たちは生きていかないといけないから。悲しい思いや痛い思いは、自分が我慢できればいいわけじゃない。涙がなんだというような人は、これが例え話だということをわかっていない!ぷんすか。勝手に話して勝手にキレるなよお、仕方ないよこいつ、デカリアルスニッカーズだもん。助かりたいなあ。助かりたいよ。グラグラしたこの生活から。どうしていいかわからない怒りから。誰しもが背負うべきではない悲しみから。そばにいてくれてありがとう。インターネットと猫ってなんでこうも混ざり合うかね毎日目まぐるしく変化していく。

誰がなんのために作ったのかもわからない、きっと存在丸ごと忘れられているたくさんのドアを一軒ずつノックして回る。

全ての部屋を周り、なんだこんなもんかと戻って、時たま拍手を送る。受け取ってもらえることはあるのだろうか。仮にその部屋の主が郵便物を受け取り返事をよこしたとしても、自分は二度とその部屋を訪れることがないので知り用もない。

古臭いホームページに、バナーの広告だけがペカペカと流行りの絵柄でこびりついている。「私を見て」網が広がる。

見える中での押せるボタンを押し尽くすと、反転してみたりスクロールしてみたり、押せそうにないところまで一通り押してみたりする。

大抵、一つや二つは隠しページが見つかって、隠さなければいけないような内容のものが隠れている。それらは卑猥で残虐でそして勇気だ。すげ〜ぜインターネットは急速に拡大した。日常に溶け込むそれは、あまりにも無秩序なように思う。密度が低くなったのだ。暗黙の了解は、暗黙でない限り意味をなさず、つまり了解から外れたもたのを止めることはできないのだ。そうやって。秩序は崩壊していく。

どれだけの数の網が分岐点がここには存在しているのか。ビックデータの中で自我を保って生きていくことはできるのか私ちゃん。

渇望していた?あの頃、まだ夜は暗かった頃から。本当か?取捨選択の能力が欠如しだけなのではないか。

タブが多ければ多いほど安心する。

網目の広がりは悪意の広がりだと、解釈してしまいがちだけぢ。悪意の網目が悪意を広げるだけであって、中の広がりは中なり悪なり凡なりに連れて行ってくれる。ただ、どこにいてもどこかでどこかは触れ合っている。それがインターネットなのだ。信じていたんだ、確かな愛を持って。画面は青いほうがいいし、要素が少ないほうがスタイリッシュに見える。曲線よりも、直線のほうがいいのだ。懐古主義と言われてしまうだろうか。泣いてしまうだろうか。私は憧れ続ける。あの日成れなかったあの人に。今は成っても仕方がないあの人に。とっくに死んでしまったあの人に。ブームや主義を通り越した自我を舐めて撫でて絆して生きている。いつまで経っても、情けない話だ。

時代は変わった。私が変わった。みんなと変わって、生まれて。あのまんまでよかったのに、高校デビューなのだ。言わないけれど。言ったところで、お前もなと、言われてしまうかもだけれど。横文字使ってみたとてやってることは変わってないのにね。今多分、インターネットの春だと思うんだ、私。春だからさみんな浮かれてんの。春って言ってもあれよ?5、6月くらい。ちょうどさ学校にも慣れてきて調子づく頃。

秩序は必要だと思う。自分が傷つかないために、誰かを傷つけないために。好きって、いえないでしょうだって。言いたいでしょうでも。魔女の鍋みたいなインターネット。とりあえずなんでも入れておけばいいのさ。

まだ子供だからという言葉に甘えてる。誕生日が来るまでは子供。誕生日がきたら、後二年は子供と自動延長されることだろう。後の私はきっとこれを読んで喜ぶ。そういうことぐらいわかってるんだ。そもそも、14歳を無為にした時点で私はもう余生を過ごしていることになるのだから。大人はみんな大人の振りなんだろうか。最近そう思うことが多い。そうやってふりをしていれば、側からは正しく見えるのだろうか。悲しいと素直に思える自分が好きだから、だからいつまで経っても大人にはなれないんだろうなあ。幾つになってもこうやってインターネットに想いを馳せるのだろうか。寂しい。付かず離れずでいたいというのが本当のところである。なんでってそう、適量がちょうどいいのだ。当然だ、適量なのだから。それでもジャンキーみたいにいつまでもいつまでもやめれられずに1日の終わりに後悔する。もう直ぐ今日が終わる、やり残したことはないか。ある。山ほどある。けれどどれも、いざ目も前にすると萎んでしまうようなものだ。邪魔なのは客観的視点かプライドか。私は大体そこを間違える。そもそもそれらは相互に作用している。話が逸れてしまった。

過激はみんなに心地いい。過激であれば、透明な指示を受けることができる。過激だからだ。どうしたいのかなんて、誰にもわかりやしない。そういうプライド。

向き合うことは見つめることで、見つめるためには近づかないことには話にならないのだけど。近づいてしまえばその波にのまれてしまうかもしれない。だからインターネットという名の虫眼鏡を使う。それでは一部しか目に入らないことを覚悟さえしていれば、もう良いのだ。正解なのだ。

あんまりね、わかんないの。わかんないから、困っちゃって、みんな一緒だけどね。わかんないから触れないでいるってダメだと思うの。

教祖様だと今でも思ってるよ。沈黙することでしかあなたへの思いを記せないなんて、あまりに厄介だよ。ずっと困っている。恨んでいる。こういう言葉すら投げかけたくない。だって私にもできたんだ。もっと確かな形で、ただ何より確実なそれが足らなかった。ありたいという思いが強すぎるあまり、結果、浅瀬チャプチャプして過ごしている。言語化できない感情があるたび悔やむけど。

 可哀想で溢れているよインターネット。みんながみんな苦しんでるよ。楽しそうだよ。眩しくて。嘘しかないよインターネット。四捨五入したら全部嘘だよ。