POYO

あたらしいくにわたくしま

覚書

当事者にはなりたくないものなんですかね。でも、蚊帳の外もいやなんですかね。どちらも、人によりますよねえ。物事にもよりますよねえ。デカい餅の話ですけど。

ひとりぼっちの夜と特筆できるということは、つまり、ひとりぼっちじゃない夜が常なんでしょう。そういうことでしょう。なるほどねって思ってしまうけど、多分、これは、揚げ足取りとかそういう類のものだし、要点をわかってない。

嘘ついたでしょ、って責めることができないのは、確信が持てないからなどではなく、溶けてしまいそうだから。愛おしくてもどうしたらいいのかわからないのは、自分のことばに価値があると思えないから。もしかしたら崩してしまうかもという恐怖がのったりと横たわっているから、いつまでも、無かったことにすることしかできない。放っておけば大抵のことは見えなくなるし、熱は触れた時にわずかに蘇ったりする。創作としての恋愛でよく見る現象だし、これは全ての感情に言えるんだと思う。

便利なデフォルメに甘えているといずれ感覚感情までデフォルメされてくるような気がする。昔はそんなこと言う人を疑ってたけど、今ならものすごくわかる。ただ、誠実さをそこまで持ち合わせていないし、多分それこそ、疑われてしまう。素直にいやらしいでしょうね。夜が深まれば深まるほど人は減って、反比例するみたいに感情は深くなりますよね。私は眠くなるので深い思考なんてできませんけど。昔痛いほど共感していた歌詞(a.k.a『夜な夜な夜な』倉橋ヨエコ)に少しも寄り添ってもらえなくなくなったのは、多分、私が色選びに成功したからだと思う。あの時はそれをどうしようもなく望んでいたし、ただ、今はもはやそれも含めて愛おしいので、寂しい。めっちゃんこちゃんちゃんこ。私が好きを一度でも捧げたものひとを全て巻き込んでブルドーザーを運転しています。これからはそれをホヤぼーやが見守っていてくれるだろうし、とても嬉しい。ホヤぼーやは、中身が綿だったり空洞だったりそもそも平面だったりするので、寄り添ってくれなくなることがないと思う。とか言ってたらめっちゃ見られてたホヤぼーやに!そんな目で見ないでよ。もちろんこんな打算的な愛だけじゃないよ。そもそも私はあなたに一目惚れをしたんだ。あ、顔だけかーいって顔してる。ごめんなさい。あなたの生き方も好きだよ。ここで天野月の箱舟がBGMとしてかかります。コーヒーもタバコも、匂いは好きです。多分一生飲まないし吸わないけど。牡蠣みたいなもの?って聞いたことがある。どちらも好きな人に。美味しいわけじゃないのについ手を出してしまうって言ってたから、私の中では牡蠣が一番近かった。牡蠣好きなんだけど、毎回、一口目はびっくりする。なんだこのなんとも言えない独特な味は!ひどいぞちみ!ってなる。けど、絶対次が欲しくなるし、その頃には目だってもはや牡蠣しか見てない。全然違うって言われたけど。いつかわかるかな別にわかんなくてもいいな。好きは勝手に増えてくから、意図的にそれを増やしてしまったら収集がつかなくなる。

人に見られることを前提として文章を書くことがないので困惑しているよ。昨日の自分のせいにしとこっか。届かないから誰も傷つかないね。バット、それこそ甘い考えであると、私はストップをかけます。届かないと思っていますか?自分がそれを確認できないだけでは?自分の視界に入らないものは、ないものなのか?冷静に、なるべきだと、思います。冷静になりました。ところで冷製パスタは好きですか?私は嫌いです。自分の考えをどこまでも公開する人は好きですか?特になんとも思いません。自分の考えをどこまでも公開する自分は好きですか?ノーコメントです。ただ勘違いしないでいただきたいのは、ここに書いてあること四捨五入しても嘘になれないけど、私の中に入れば嘘になるということ。大体、そんなもんでしょう。

円と円の交わり部分だけを見つめていたら頭だっておかしくなるし何より目が疲れてしまうと思わんかね?

 

雑記

星空の 下のソーシャルディスタンス

しょっぱなから一句よんでしまったし、つまりキーボードから離れられていない現状。

 

デカい餅の話をします。

それはとても大きくて、まず臼が悲しんだ。

「私はこの店で一番重くて大きかったのに、ぽっとでのやわこいのに負けた。しかもそれを作ったのが私なんて。」

それを聞いて心の狭い餅屋の若いのが怒る。

「作ったのは外でもない俺で、お前はただそこにいただけだろ!」

それを聞いて餅屋の店主が怒る。

「店で喧嘩するなみっともねえ。揃って出て行け!」

生まれたばかりの大きな餅は自分のせいで喧嘩がおこるのが悲しくて逃げ出す。自分がいなければ平和だったのにと泣きながら……。

 

え、デカい餅かわいそ〜〜〜!!!!!!!でもこの間蚊帳の外極めてるいつもの餅たちもかわいそう。なんならちゃんと仕事してるのに何にもやってないみたいな扱い受ける臼もかわいそう。ただでさえダメージ受けてるっぽいんだからそっとしておいてやればいいのにね。ただそこで自分のプライドを優先しちゃうのが若いのの若いのたる所以というか。

 

窓の外の出来事に耳を済ませて過ごしている、とき、そこに私は必要がない、のだけれど。心のどこかで、道ゆく人が、私のふとした一言に惚れ込みデモが起こったりすればいいなあと思っているのも事実。

 

昔の覚書を見て、何にそんなに怒っているの?ぽよよ?はわ〜と思っているけれど、私へ。そうならないために覚書ってるんじゃないの?私より。

 

青色が足りていない毎日は限りなく物足りないので、誰か、限りなく青くなって、常に私の視界に入っていて欲しいね。青色が可愛いだけで私は別に青色じゃなくてもいいということに気づいたのでこういうことを言っています。髪の毛って私のヘアスタイルだと基本的に視界に入ってこないから、青髪にしたところで常に鏡見てないと意味ないやんって気づいちゃった。誰よりそばにいるのに遠いよ……ベイベ……。

陽気な気分ですぅ。

 

デカい餅のこと、どれくらい考えて生活していますか?私は困った時悲しい時嬉しい時辛い時怖い時溢れる時、デカい餅のことを考えてしまいます。詰まるところの大体いつもです。ふとした瞬間いつだって私はデカい餅と共にいるんだということを自覚させられて、正直な話それなりにプレッシャーです。なんてったってデカいから。それにわたしそもそもそんなに餅が好きじゃない。あとお餅って呼びたい派。デカいところいがい肯定(※ズィーヤ⭐︎)できないし、乃至。乃至って単語めちゃめちゃ好きですペルセウス。全然、使う機会ないけど。私の文章では。むしろ誰の文章ではある?Mr.麿のブログタイトルのイメージですぽよかねえ。

一晩中思いつくままに文章書いてやろうかしら。愛と勇気ですごいことになっちゃいそう。過度な水やりは植物を枯らす原因です。ゲイン下げましょう。中音〜!

盛り上がっているか日の出アパートの住人たち、あるいは進化人。俺はいつまで経ってもひねくれの世界から帰ってこられません。僕がエフェクターなら、あまりの中途半端な歪みかたに世界中の気持ち悪い音愛好家を震え上がらすことができただろうに。きっと高値がついたのに。日下部の花子さん。会いたいんだ今すぐその角から飛び出してきてくれないか(ななこおねいさん)。クレヨンしんちゃんは春日部か。惜しい!おしいって言葉すごいよなあ。限りなくおしりに近いもんなあ。手書きだったら多分見分けつかないぜ。いとりなんてほとんど同じ形だもん。母音も一緒だし。ところで終わり、おしまいのことをくっつけておしりという文化はどこ発祥なんだろう。私がいうのもなんだけど、あまりにこじつけすぎない?どちらかに響きが似ているわけでも関連性があるわけでもなく、ただただ一文字違いの下ネタにしてやろうというそういう根性、愛おしいよ。おしり。

心地よい風なう

701号室にとって一番過ごしやすい季節がやってきた。

 

タッセルをなくしてしまったものだから、レースのカーテンが髪の毛ごと撫であげる。頬を包んでみたり唇をかすめてみたり、この空間に恋を思ってしまう。

何にもない日代表として描写されそうな今の空気だけれど、なんだかんだ、こんな日の方が少ないのだ。

ゆったり目を瞑って小鳥の声が聞こえて、筆先が余裕を持ってストロークする。SAWAYAKAで大変よろしいではないか。

少し涼しいくらいの外の風が好き。

晴れた5月の昼間の風、雨の3月の夜中の風、どちらも大変よろしいではないか。

え。

大切なのは家の中にいることで、少しでも風が暴れ出したらすっと窓を締め切って、さっきまでの心地よさに思いを馳せるのだ。風の楽しみ方。

 

 

というわけで、あんまり自分勝手ではいたくないけど、それは、対人間のためにとっておきたい気遣いだよね!はじめからちょっとしか持ってないものなんだから消耗してしまっては勿体ない!

 

 

毎日毎日お洋服に悩まされてる。人によく見られたいと思うのに、そのために服ってそれなりに必要なのに、私は一切服に興味もてないの~!なんで。っていうか笑われたくないってのが服選びの大前提にある。人のソックスを笑うな。とはいえお洒落は足元から。めちゃくちゃいってんなよ。

 

諦めてもいいものは諦めよう。おしゃれとか。

覚書

幼稚でいることの意味はどこにあるんだろうか。これは私の中の永遠の謎であるが(ディアルガ)、自分の理解の範囲から外れた人間を幼稚と読んで切り捨てる行為こそ、グロテスクで幼稚なのではないか。手軽な意見表明とうねり。

 

人間、動物植物などがみな身につけているものごと溶け出し、ぐるりと混ざってしまえばわかるようになるのだろうか。そうしないとわからないのだろうか。言葉があって思考があって、わかり合うための手段をなぜ対立するために使ってしまうのか。またこれは、思考や言葉を持たない人間、動物植物を切り捨てることになるのかと言われれば、それこそ違うと思いたい。生態系が崩れてしまわぬように環境保全するのと同じで、私が崩れてしまわぬようにこうして生きているのだろう。EGO当たり前に嫌い。ため息つくようなことでもないしね。

ブーメランってよくいうけど、自分ができてないことで人を笑うってあんま好きじゃない。けど、完璧な人しか人に指摘しちゃならないってのも、う~んと思う。(おおよそこういうところで言語化することを諦め感情をデフォルメしてしまうあたり私は一生谷川俊太郎になれない(寂しいね(カッコをカッコで囲うな(いつかちゃんと自分の言葉で書こうな))))平になりたいわけじゃない一色になりたいわけじゃない。あなたの凹凸と私の平面が合うように合わせてみたり合わないようなら離れてみたりそれでいいと思う。なんでしないんだろ嫌なんだろって私は思うけど、それを望まない人をも擁するのが多様性なんだと思っているよ。どこぞの飲料水のブランドの行動は称賛されていたけれど。理解できない、故に攻撃する人に対して反撃しても、もう、どうにもならないじゃあないか。もちろん殴られて黙って許せと言っているわけではない。しかしこの大インターネット時代、直ぐに私刑が降るのだ。まだ答えは出せないけれど、何かとちゅうがあるはずだと思う。常識を覆すってよくいうけれど、もう、覆せる常識もそろそろ少なくなってきた。視界狭いか?ジャマイカ。オセロみたいにいかない。覆した先は決して反対色ではない。裏返すとそこに大きな穴と大きな地面が生まれる。そろそろ、浮ついている。学びは必要だと思う。私たちは生きていかないといけないから。悲しい思いや痛い思いは、自分が我慢できればいいわけじゃない。涙がなんだというような人は、これが例え話だということをわかっていない!ぷんすか。勝手に話して勝手にキレるなよお、仕方ないよこいつ、デカリアルスニッカーズだもん。助かりたいなあ。助かりたいよ。グラグラしたこの生活から。どうしていいかわからない怒りから。誰しもが背負うべきではない悲しみから。そばにいてくれてありがとう。インターネットと猫ってなんでこうも混ざり合うかね毎日目まぐるしく変化していく。

誰がなんのために作ったのかもわからない、きっと存在丸ごと忘れられているたくさんのドアを一軒ずつノックして回る。

全ての部屋を周り、なんだこんなもんかと戻って、時たま拍手を送る。受け取ってもらえることはあるのだろうか。仮にその部屋の主が郵便物を受け取り返事をよこしたとしても、自分は二度とその部屋を訪れることがないので知り用もない。

古臭いホームページに、バナーの広告だけがペカペカと流行りの絵柄でこびりついている。「私を見て」網が広がる。

見える中での押せるボタンを押し尽くすと、反転してみたりスクロールしてみたり、押せそうにないところまで一通り押してみたりする。

大抵、一つや二つは隠しページが見つかって、隠さなければいけないような内容のものが隠れている。それらは卑猥で残虐でそして勇気だ。すげ〜ぜインターネットは急速に拡大した。日常に溶け込むそれは、あまりにも無秩序なように思う。密度が低くなったのだ。暗黙の了解は、暗黙でない限り意味をなさず、つまり了解から外れたもたのを止めることはできないのだ。そうやって。秩序は崩壊していく。

どれだけの数の網が分岐点がここには存在しているのか。ビックデータの中で自我を保って生きていくことはできるのか私ちゃん。

渇望していた?あの頃、まだ夜は暗かった頃から。本当か?取捨選択の能力が欠如しだけなのではないか。

タブが多ければ多いほど安心する。

網目の広がりは悪意の広がりだと、解釈してしまいがちだけぢ。悪意の網目が悪意を広げるだけであって、中の広がりは中なり悪なり凡なりに連れて行ってくれる。ただ、どこにいてもどこかでどこかは触れ合っている。それがインターネットなのだ。信じていたんだ、確かな愛を持って。画面は青いほうがいいし、要素が少ないほうがスタイリッシュに見える。曲線よりも、直線のほうがいいのだ。懐古主義と言われてしまうだろうか。泣いてしまうだろうか。私は憧れ続ける。あの日成れなかったあの人に。今は成っても仕方がないあの人に。とっくに死んでしまったあの人に。ブームや主義を通り越した自我を舐めて撫でて絆して生きている。いつまで経っても、情けない話だ。

時代は変わった。私が変わった。みんなと変わって、生まれて。あのまんまでよかったのに、高校デビューなのだ。言わないけれど。言ったところで、お前もなと、言われてしまうかもだけれど。横文字使ってみたとてやってることは変わってないのにね。今多分、インターネットの春だと思うんだ、私。春だからさみんな浮かれてんの。春って言ってもあれよ?5、6月くらい。ちょうどさ学校にも慣れてきて調子づく頃。

秩序は必要だと思う。自分が傷つかないために、誰かを傷つけないために。好きって、いえないでしょうだって。言いたいでしょうでも。魔女の鍋みたいなインターネット。とりあえずなんでも入れておけばいいのさ。

まだ子供だからという言葉に甘えてる。誕生日が来るまでは子供。誕生日がきたら、後二年は子供と自動延長されることだろう。後の私はきっとこれを読んで喜ぶ。そういうことぐらいわかってるんだ。そもそも、14歳を無為にした時点で私はもう余生を過ごしていることになるのだから。大人はみんな大人の振りなんだろうか。最近そう思うことが多い。そうやってふりをしていれば、側からは正しく見えるのだろうか。悲しいと素直に思える自分が好きだから、だからいつまで経っても大人にはなれないんだろうなあ。幾つになってもこうやってインターネットに想いを馳せるのだろうか。寂しい。付かず離れずでいたいというのが本当のところである。なんでってそう、適量がちょうどいいのだ。当然だ、適量なのだから。それでもジャンキーみたいにいつまでもいつまでもやめれられずに1日の終わりに後悔する。もう直ぐ今日が終わる、やり残したことはないか。ある。山ほどある。けれどどれも、いざ目も前にすると萎んでしまうようなものだ。邪魔なのは客観的視点かプライドか。私は大体そこを間違える。そもそもそれらは相互に作用している。話が逸れてしまった。

過激はみんなに心地いい。過激であれば、透明な指示を受けることができる。過激だからだ。どうしたいのかなんて、誰にもわかりやしない。そういうプライド。

向き合うことは見つめることで、見つめるためには近づかないことには話にならないのだけど。近づいてしまえばその波にのまれてしまうかもしれない。だからインターネットという名の虫眼鏡を使う。それでは一部しか目に入らないことを覚悟さえしていれば、もう良いのだ。正解なのだ。

あんまりね、わかんないの。わかんないから、困っちゃって、みんな一緒だけどね。わかんないから触れないでいるってダメだと思うの。

教祖様だと今でも思ってるよ。沈黙することでしかあなたへの思いを記せないなんて、あまりに厄介だよ。ずっと困っている。恨んでいる。こういう言葉すら投げかけたくない。だって私にもできたんだ。もっと確かな形で、ただ何より確実なそれが足らなかった。ありたいという思いが強すぎるあまり、結果、浅瀬チャプチャプして過ごしている。言語化できない感情があるたび悔やむけど。

 可哀想で溢れているよインターネット。みんながみんな苦しんでるよ。楽しそうだよ。眩しくて。嘘しかないよインターネット。四捨五入したら全部嘘だよ。